やっちゃえ先生探究記

生徒の力が引き出される「学習者中心の学び」をデザインしたい教員です。地道な形成的評価を大切に。

まとまりのあるクラス=良いクラスとは限らない?〜マンガ『MAJOR』の大名言〜

eGullet Heartland Feast-183

皆さんが通っていた学校のクラスは、まとまりがあったでしょうか?

私が勤めている学校では、保護者や生徒に「学校生活アンケート」を行い、毎年の学校運営に反映させています。

その中の保護者向け質問項目で、「子どものクラスはまとまりのあるクラスか?」という質問がありました。私はこれを見て、ん?と思ったのです。

 

◯「まとまり」のあるクラスってなんだ?

ブログなので率直に書きますが、

「まとまりのあるクラス=いいクラス」という価値観は必ずしも正しいとは限らないと思います。なぜなら、日本語の「まとまり」には、日本の価値観としてよく語られる「同調圧力」も多分に含まれていると思うからです。

この同調圧力の存在に目を背けて、言い換えれば、個人個人が「個人」であることを抑圧する状態を見ずして、「まとまり」を良い物と考えるのは、どうでしょうか。

少なくとも、教員が「まとまり」を重んじすぎるのは危ういと感じます。

 

◯「まとまり」には3つの意味がある

1 ばらばらのものが統一のとれたひとかたまりになる。「引っ越し荷物が纏まる」「纏まった金額」

2 物事の筋道が立って整う。「計画が纏まる」「考えが纏まる」

3 決まりがつく。互いの意志を一致させる。「交渉が纏まる」「縁談が纏まる」

と見てみると、「まとまりのあるクラス」で用いられているのは主に1でしょう。もしかすると、3の「互いの意志を一致させる」と捉えることもできるでしょうか。

となると、

「ばらばらのものが統一のとれたひとかたまりになるクラス」=いいクラス

なのでしょうか??

教育=「引き出す」ものです。

生徒が持っている引き出しは本来バラバラのはず。それを常に統一、統一、の方向で考えるのは何か矛盾しているような気がします。(教員目線としては、「統一」されたクラスは動かしやすくて助かります。笑)

私はこの「まとまり」に懐疑的というか、不用意に使うと危ない言葉だなあという認識を持っているので、先の保護者アンケートの不用意さに驚いたわけです。

では、

◯いい「まとまり」とはどんな「まとまり」だろう?

というのが次の問い。これには、私の好きな野球マンガ『MAJOR』が大切なことを教えてくれると考えています。

主人公の茂野吾郎は、大事な試合直前のチーム練習に参加せず、自らの練習に集中していました。さらにその試合でも仲間のミスに歯に衣着せぬ物言いをしたことで、不穏な空気がチームに漂います。

そんな吾郎は、仲間に「これ以上チームワークを乱す気か?」と問われます。そこで放ったのがこの名言。

「チームワーク、チームワークってバカじゃねーのか!

うわっつらだけのインチキチームワークなんぞヘドが出るぜ!!」

そして、

「チームができてたった二、三か月のうちなんかに、ハナからチームワークなんかあるわけねーんだよ!!

だからまずいプレーをとがめもせずにドンマイって言うことでチームワークを装うのか?

だからみんなそろって練習したり、 自分のこと相談したりすることでチームワークをつくるのか!?

全然違うね!

チームワークってのはそんなことで作られるもんじゃねえ!

自分と戦って、仲間と戦って、そして相手と戦って勝つ!!

そこで全員が苦しんで流した汗の分だけチームワークは生まれるんだ!!」

 クラス運営に当てはめてよいかと言われると少し違うかもしれません。

でも、本質的なことを教えてくれているような気がします。

「まとまり」を重んじる日本だからこそ、一回疑ってかかる必要があると感じます。